

春になって
雪がとけて
水になって
山を下る
沢が生まれて
谷が広がり
山を刻む
大山山頂縦走路
何千年も
何万年も
そんなことが
くりかえされて
いつの日にか
僕の愛した
山も消える
大山山頂縦走路
An Old Extinct Volcano
大山山頂縦走路
北の壁も
南の壁も
石が落ちる
土が崩れる
痩せた尾根の
うめきが聞こえる
山が裂ける
大山山頂縦走路
春の風も
夏の雲も
秋の雨も
山を削る
創りし神が
自ら壊す
人は無力
大山山頂縦走路
An Old Extinct Volcano
大山山頂縦走路
キャラボク茂る
広い頂(いただき)
人が登る
僕も登る
三角点の
先にはだかる
尾根は刃(やいば)
大山山頂縦走路
風が渡り
鳥は歌う
険しい山は
人を拒む
朽ちゆく路(みち)を
渡るあの人
山のマイスター
大山山頂縦走路
An Old Extinct Volcano
大山山頂縦走路
An Old Extinct Volcano
大山山頂縦走路
An Old Extinct Volcano
大山山頂縦走路
- 作詞者
HOUTEN3
- 作曲者
HOUTEN3
- プロデューサー
HOUTEN3
- シンセサイザー
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- ボーカル
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- バックグラウンドボーカル
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- プログラミング
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大山山頂縦走路~夏山に登る~ (夏山バージョン)
HOUTEN3
先行リリースとなった「大山山頂縦走路~春山に遊ぶ~」、「大山山頂縦走路~エクステンデッド1729~」(オリジナル・バージョン)に続く、夏山バージョン「大山山頂縦走路~夏山に登る~」です。力強いティンパニの音は、夏の入道雲をイメージしています。
大山について
鳥取県にそびえる伯耆大山は標高1729m。中国地方の最高峰であり、深田久弥氏による「日本百名山」において、中国地方唯一の百名山に選定されている一座です。毎年、多くの登山者が訪れますが、山体が脆い岩でできているため、頂稜部の崩壊が著しく、なだらかな山並みが打ち続く中国山地にあって、一人大山のみが険しい岩壁(実際は泥壁ですが)をまとった怪異な山容を呈しています。大山の存在は、中国山地において、まるでそこに異世界が出現したような圧倒的な存在感があります。大山の山頂部は痩せた尾根が東西にわたって伸びていますが、やせた稜線上を渡って大山を縦走する登山路がつけられていました。それが「大山山頂縦走路」。しかし、激しい浸食によりこの路は無残に朽ち果てて崩壊し、かなり以前より通行禁止となっています。しかし、一部の上級登山者のみなさんは、自己責任の範囲でこの危険な路に挑んでいます。この曲は、作者のHOUTEN3が、そんな「大山山頂縦走路」への憧憬を盛り込んだものです。
アーティスト情報
HOUTEN3
音楽をほとんど聴かない若者だった私が、音楽にめざめたのは、大学生時代に初めてKraftwerkを聴いたときでした。 すぐに、かれらの熱烈なファンとなった私でしたが、そのころはまだ、他人の創った音楽を聴くだけの普通の音楽ファンにすぎませんでした。私が、自ら音楽を創るという行動に向かいはじめたのはユニークな理由がありました。 音楽に目覚めはしたものの、ヘンコツ者の私にとって、聴く価値があるのは、Kraftwerkの音のみだったのです。「Kraftwerk以外のテクノは、すべてKraftwerkのマネにすぎない」。これが、私の音楽論でした。しかし、ご存知のように、彼らは1981年の「Computer World」以降、長い沈黙を保つようになりました。次作にあたる「Electric Cafe」のリリースは1986年。「TheMix」のリリースは1991年。10年間で、アルバム2枚。たいへんな寡作ぶりです。 シングル「Tour de France」(1983)は、日本ではリリースされず、私が初めてこの曲を聴いたのは、リリースされてから18年後です。 というわけで、音楽に目覚めたばかりの私は、かれらが新しいサウンドを提供してくれないのなら、自分で創り、自分で聴くしかない。というわけで、安い機材を買いそろえ、自分で音楽の勉強をし、「自分で作って自分だけが聴く=音楽の自給自足生活」と称する音楽生活が始まったのでした。 そんな私でしたが、2000年代、自分の才能の限界にぶちあたりました。私の目標は、テクノを作るのではなく、Kraftwerkがテクノを生み出したように、自分もそれまでになかった全く新しい「音楽のジャンル」を生み出すという大それたものだったのです。しかし、そんなことを成し遂げる才能など、自分にはないことを思い知らされたのです。 割り切った私は、方向を転換し、今度は思い切りKraftwerkのマネをする。すなわち、妙な拘りは捨てて、自分も「どテクノ」を作ることにしたのでした。その手始めとしてやったのが、「The Blend」と称するKraftwerkのトリビュート作品です。これは、1991年に、彼らが自分たちの過去作品リミックス(実際はリメイクですが)して作った「The Mix」にあやかったもので、コーヒーみたいに、Kraftwerkの楽曲を、いい感じでブレンドしたものです。当時は、まだvocaloidもなく、ヤマハがXG音源用にい開発した、「DTMに歌を歌わせる」ためのフォルマント・シンギング音源を駆使して、あのロボット・ボイスを再現しました。もちろん、著作権の問題があるシロモノですが、これは彼らの新作を待ち焦がれる熱烈なファンたちのために、「私が当面の代用品を提供します」そんなコンセプトによるものでした。このBlendシリーズは、 25曲あり、他にKraftwerkを題材としたオリジナルのトリビュート曲を20曲くらい作りました。 2003年の「Tour de France Sound Track 2003」以降、Kraftwerkは新作は出さないものの、勢力的にコンサート・ツアーをするようになりました。フラストレーションに呻いていたファンたちの耳の渇きはいやされるわけですが、このとき私は自分の役目(?)も終わったと考え、Kraftwerk Tribute路線に幕引きすることにしたのでした。 その後、仕事の都合で多忙な続くなか、私は音楽活動そのものから遠ざかることになりました。そんな私に、ひとつの影響を与えたアーティストが、中田ヤスタカさんでした。彼の音楽自体に診せられたというよりも、音楽クリエーターとしての、ポリシー、音楽観、ライフスタイルに大いに感化されたのでした。ある紹介番組で、「Dream Fighter」がオリコン1位になったときの話です。Perfumeの3人が曲を絶賛。アナウンサーが「では、中田さん本人の話を伺ってきました。」自分の作った曲を絶賛するperfume3人の映像を見た中田氏が放った一言は、「どんな曲だったっけ?」でした。 もう、私は唖然として、この人は化け物だ・・・・。と思わざるを得ませんでした。別の紹介番組で、中田氏がこれからの目標として語ったのは、「いつまでも、やりたいことだけをやってることが許される人でいたい」。なんとうらやましい人生・・・・。今の私の音楽創作スタイルは、こんな中田氏のことばに、大きく影響を受けています。 私の創作ポリシーは、「音楽なんてテキトーに創りゃいい」なのです。 o
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