何もなくて良かった (remix)のジャケット写真

何もなくて良かった (remix)

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トラックリスト

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その日も、男は六時に目覚めた。
カーテン越しに薄い光が差し込んで、寝室の壁紙の継ぎ目をなぞっている。男は仰向けのまま、まず深く息を吸った。そして、吐き切ってから十五秒息を止め、また吸う。それを三回繰り返す。次に坐禅を組み軽く目を閉じ、瞑想を十五分。丁寧に自分の呼吸と向き合う。
床に降りてヨガマットを広げる。動画で覚えた一連の動きをこなす。背骨が一節ずつ目覚めていく感覚は、悪くなかった。それから台所に立ち、コーヒー豆を挽いた。香りが部屋に満ちるのを、目を閉じて確かめる。コーヒーを二杯。最初の一杯は熱いまま、二杯目はゆっくり。そう決めていた。
通勤電車では立つ。座らない。
会社には始業の三十分前に着く。デスクを拭き、コーヒーを淹れ、同僚に挨拶をする。皆がぱらぱらと出社してくる頃には、彼の中では一日がすでに整っている。
彼は係長への昇進を控えていた。年下の女子社員に冗談混じりに祝われ、男は穏やかに笑い返した。
昼は手作り弁当。味より栄養。
残業は極力しない。帰りやすい空気を作るのも、上に立つ者の務めだと思っていた。
会社帰り、1日おきに通うジム。
楽しみは、ベランダで夜風に当たりながら飲む一杯のビール。
寝る前一時間の読書。
二十二時就寝。
それは祈りに似た日々だった。
その日の帰り、男は駅前のコンビニに寄った。
ATMで金を下ろし、ふと振り返る。その時ガラスに映った自分と目が合った。
スーツの肩のラインが、いつもより少しだけ落ちて見えた。
それだけのことだ。それだけのことなのに、男はしばらく動けなかった。
――これは、誰だ。
ガラスの向こうの男は、知らない男だった。よく整っていて、清潔で、感じがよくて、誰からも嫌われない男。彼が長年、丁寧に組み立ててきた男。
だが、それは誰だ。
帰りの電車で、男は珍しく座った。膝の上に置いた鞄の中には、昇進祝いに買った少し高いビールが入っていた。家に帰ったら、ベランダで飲むはずだった。決まった椅子に座って、決まった夜景を見ながら。そう思うと、電車に揺られている自分が、急に他人に見えた。
最寄り駅で降りて、彼はいつもの道を逸れた。
理由はなかった。ただ、まっすぐ家に帰ると、また「祈り」が始まる気がした。
住宅街の細い路地を歩いた。電柱の影が、アスファルトの上にやけに長く伸びていた。夜風が吹いて、ネクタイの裾を揺らした。
歩きながら、彼は数えてみた。
朝の瞑想は、誰の言葉だったか。ヨガは誰の動画だったか。手作りの弁当は誰の本に書いてあったか。残業しない係長は、SNSの誰の理想像だったか。一杯のビールをベランダでというのは、誰かのインタビュー記事だったか。
全部、借り物だった。 全部、誰かの夢だった。
彼が「自分の生活」と呼んでいたものは、他人の言葉を寄せ集めて作った祭壇のようなものだった。その祭壇の上で、毎日、誰でもない誰かに祈っていた。
電柱の根本にしゃがみ込んで、男はしばらく動かなかった。
泣くわけでもなかった。怒るわけでもなかった。ただ、肩に乗っていた何かが、するりと落ちて、地面に転がっていく音だけがした。
――軽くなった。
そう思った。おかしかった。声を出して、少し笑った。誰もいない路地に、男の笑い声が響いた。それも悪くなかった。
何者でもない男が、電柱の影の中で笑っていた。それが、たぶん、本当のこの男だった。
――飾りを取ったら、お前は誰だ。
夜は答えなかった。答えないのが、正しかった。
立ち上がって、彼は鞄からビールを取り出した。プルタブを開けて、路地の真ん中で、立ったまま一気に呷った。ぬるくなりかけていた。それでもよかった。むしろ、その方がよかった。
家には帰る。明日も会社には行くだろう。昇進の辞令もたぶん、受ける。
だが、もう祈らない。
整えない。整えられた自分を、本当の自分だと思わない。削ぎ落としていく。借り物を、一つずつ、返していく。最後に残ったものが、たとえ何もなくても――いや、何もなくてよかったんだ。何者でもない俺が、一番俺だったんだ。
夜風がまた笑った。少しうるさいくらいだった。
まあいいか、と男は思った。
そう思えたこの夜が、一番好きだった。
電柱の影が、男のすぐ隣に伸びていた。
その影が男の中にも伸びてきたのか、言葉が浮かんだ。
新たな祈りかもしれない、そうじゃないかもしれない。
だけど、どちらでもいい。
「まだ、ここにいろ」
男はつぶやき、夜空を見上げた。