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人生で一番嫌いな文章は自分の文章だった、などと言うといかにも拗らせた人間の告白みたいに聞こえるかもしれないが、少なくとも私にとってそれは紛れもない事実であり、他人の酷評なら酒の肴にできるくせに、自分が数時間前に書いた文章だけは何度読み返しても許すことができず、もっと良い言い回しがあったはずだとか、この比喩は安易だとか、こんな結末で本当に良かったのかとか、誰に頼まれたわけでもないのに延々と自分を裁き続け、そのたびに胸の何かが削れていく感覚を味わいながら、それでも書くことだけはやめられずにいた。

だから最初に原稿へ赤字を見つけた時も、それほど驚かなかった。深夜まで作業した記憶はあったし、眠気で朦朧としたまま自分で修正したのだろうと思った。問題は、その内容だった。

『逃げるな』

たった四文字。意味が分からなかった。文章への指摘でも、誤字でもない。まるで私自身に向けられた言葉だった。気味が悪かったが、その日は放置した。

しかし翌朝、原稿を開いた瞬間、椅子から立ち上がりそうになった。赤字が増えていた。

『そこは本音じゃない』
『見栄を書くな』
『嘘を書くな』
『まだ隠している』

全部当たっていた。そこには私が誤魔化した部分だけが並んでいた。読者には分からないだろう。編集者にも。けれど私だけは知っていた。だから腹が立った。誰だ。

監視カメラを設置し、玄関にも窓にも細工をした。録画を確認したが、何も映らなかった。夜の私は机に突っ伏したまま朝まで眠り続けている。それなのに赤字だけが増える。

読み返すうちに、一つの違和感に気付いた。まだ書いていない文章への指摘が混ざっていた。

『その結末では届かない』
『そこで主人公を許すな』

私はまだ結末を書いていない。まだ許していない。つまり赤字は原稿ではなく、未来を読んでいた。いや、未来になるはずだった何かがこちらを見ている。

その夜、眠れなかった。午前三時を回ったころ、誰も触れていないキーボードから文字が現れた。一文字ずつ。ゆっくりと。

『やっと気付いたか』

震える指で打ち返した。『誰だ』

『お前だ』

予想していた。だが次の一文は予想していなかった。

『未来のお前じゃない。お前が捨てた方だ』

原稿を添削していたのは未来の自分ではない。途中で諦めた自分だった。逃げた自分だった。何者にもなれないと決めつけて消えていった可能性だった。だからあれほど厳しかった。誰よりも私を知っていたから。

画面に最後の一文が浮かぶ。それは指摘でも批評でもなく、祈りに近かった。

『今度は俺を空気にするな』

窓の外で、夜明け前の空がゆっくりと白み始めていた。


浅沼ミナ